住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、毎週楽しみにしていた歌番組の話。活躍する同世代の女性と一緒に、“’80年代”を振り返ってみましょう――。
放送回数約600回で、最高視聴率41.9%をたたき出した伝説の歌番組『ザ・ベストテン』(’78~’89年・TBS系)。
「毎週木曜の夜9時を心待ちにしていた人は多かったはずです。ランキングは視聴者によるハガキ投票やレコードの売上げ枚数だけでなく、有線放送やラジオのリクエスト数など、さまざまな指標を用いたため、歌謡曲からロック、演歌まで幅広い曲を一つの番組で楽しむことができました」
そう話すのは世代・トレンド評論家の牛窪恵さん(53)。
アイドル全盛の’80年代は、松田聖子 vs. 中森明菜のランキング争いも気になるところだったが、生放送の臨場感、中継によるハプニングも楽しみの一つだった。
「聖子さんが新幹線の静岡駅でホームに降り立ち、停車時間で『チェリーブラッサム』(’81年)を歌い、駅員さんの発車を知らせる笛の音が響き渡って、慌てて再び新幹線に乗り込み去っていくシーンは、あまりにも有名です。長渕剛さんが『順子』(’80年)で出演した際、周りから手拍子が巻き起こったのですが、『失恋の曲だから手拍子は勘弁いただきたい』と曲を一旦止め、改めて、静かな中で歌い始めたことも」
ほかにも、アルフィーがファンの自宅で歌うためにアポなしで訪問したら、留守だったため、犬の鳴き声が聞こえるなか、単にファン宅の前で歌ったこともあった。
「ハプニングが起きても、久米宏さんと黒柳徹子さんの息の合った漫才のような掛け合いで、番組が進行されていました。とにかく毎週のようにコンサート会場、ドラマや映画撮影の合間などからの中継があったので、番組制作費も莫大だったはずです」
また、番組ではセットの後方のソファで、出演者が談笑する様子も映し出された。
「CM明けなどに、アイドル同士が仲よくしゃべっている姿を見ると“あの2人は仲がいいんだ”と勝手に想像したり、郷ひろみさんが登場したとき、松田聖子さんをどのような目で見るのかも気になっていました」
一方、ロックやニューミュージックの歌手の一部は、自身のポリシーなどを理由に番組出演を拒否し、鏡張りの回転扉から出てこないこともあった。
「だから、初めてのミュージシャンがランクインしたときは、“この人は番組に出る主義なのか”と注目されたりもしました」
出演者だけでなく、出演を拒否することも含め、すべてがエンタテインメントになっていたのだ。
「女性自身」2021年10月19日号 掲載
2021/10/11 06:00
https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/2025775/
夜のヒットスタジオの方が好き
>>2
いちいち「俺は周りとは感性が違うんだ」って主張イラネ
>>6
違うのは感性ではなく時代ね
60年代~70年代の夜のヒットスタジオが好きってこと
>>11
そういうとこだよ
>>14
まああれくらいの承認欲求の発露は無害だしスルーしてやれよ
>>6
カルシウム不足
>>2
古舘からつまらん
井上順まで
ラジオのエアチェックとアナログレコード版全盛時代
ラジオの深夜番組を聞き、音楽を録音、レコードを買いまくった
富が生産者(歌手、作曲家、作詞家)に還元された時代だ
追っかけマン・松宮一彦の功績にも触れてあげて
昨日見たなあの男の司会者は誰だったんだろ
ヒロミゴーはたのきん全盛になった途端に出演拒否だから聖子居た頃は
トレンド(昔話)
ハプニングとか生放送を楽しめる時代は楽しかっただろうな
現在のほうがレベルは高いけどハプニングなんてないしな
>>9
いまは
出演者にもスタッフにも、
生の音楽番組に対応できるスキルはないと思うわ
本当にドン引きのトラブルが起きてたのはトップテンの方なのな
日航機墜落の速報がニュースセンターから入ってやり取りさせられたり
松田聖子の中継で直前に暴漢に襲われて怪我したのを現地アナが伝えたり
放送年数は短かったのに怖い事がやたら起きてた
>>10
とんねるずがファンにもみくちゃにされてブチ切れたのはベストテン?トップテン?
>>15
ベストテンの静岡公開生放送だな
>>15
石橋は当時23歳
>>10
松田聖子襲撃は「ベストテン」じゃなかった?
>>10
明菜に帰れコールとか酷かった
なんでコニタンなんだよ
コニタンは違うだろう
おニャンコ出てなかった
甲斐バンド初出演でライブ会場からの中継
甲斐が泥酔して歌っていた
だけでなく歌いながら水割りを煽っていた
よほどテレビが苦手だったんだと
同じくテレビ嫌いの松任谷由実もガチガチに緊張して声がうわずっていた
>>16
ゴダイゴと甲斐バンドのお陰でロックがメジャーに成れたと思う
初期のベストテンでは矢沢永吉・松山千春・中島みゆき・井上陽水の4人は
絶対に出演しなかった記憶がある。他にもいたようだけど。
その後BOOWYとか出ないバンドや歌手が激増した。(決まって理由はレコーディング)
長渕剛はランクイン初週の時だけは出て、その後はレコーディングとか映画撮影とかで
出演拒否してた
ルビーの指輪がウザかった
>>19
ワロタ
真ん中のソファー赤くなったんだよなw
郷ひろみが途中から出演拒否するようになったね。沢田研二が批判していたけど今はまるで逆だから人間変われば変わるもんだなと
昔はジュリーのが柔軟にコントでたり曲を短くされても変な場所で歌わされてもテレビに出ることが大切なんだと柔軟に出演していた。
今は逆になってジュリーが偏屈なじいさんになってテレビにでなくなり郷ひろみがバラエティーで温泉入ったりしてる。
>>21
ジュリーは良くも悪くも志村けんの影響が大きかったような気がする
昔はニューミュージックと一時呼ばれてたアーティストはテレビでなかったね
菊池桃子が象に乗って歌ったのもコレだっけ?
米米CLUBが毎回出てくれなかった
リクエスト重視だからレコードセールスの少ない曲が1位とか多かったね。
>>27
五木ひろしが一位になったときリクエスト葉書の階段がセットだったな
刑事ドラマで久米宏が
殺人事件の容疑者として本人役で出演して
ザ・ベストテンのリハーサルをやってる裏で
取り調べを受ける話があったな
(出典 stat.ameba.jp)
晩年は出ない歌手やバンドが多過ぎて番組が成り立たなくなった印象
光GENJIがウザかった印象
>>29
ランキングと最先端の音楽シーンが別物になったのが決定打だった
>>29
ぶっちゃけ、番組潰したのは光GENJIだと思う
あいつらがわがまま放題やってて視聴者が辟易してたところに
みなさん始まって客取れれちゃった
>>29
なんか80年台後半は出演しない俺カッケーみたいになってて
実際拒否したアーティストが今のTBS音楽番組でも評価してて
なぜか当時よくランクインして快く出演もして番組に貢献したアーティストが代表作一発屋扱いにされてるのが悲しい
新幹線やタクシーで行っちゃうのあったなぁ
とんねるずはコントのスタジオから中継して共演タレントも出てくれたり
トップテンは修学旅行で来た学校を紹介してて中学生になったら修学旅行観覧したいと思ってた
五木ひろしの追憶が年間1位になった時のなにそれ感
BOØWY
世良公則
銃爪
ザ・ベストテン
TBS系25局ネット(当時)
木曜夜9時
スタジオ生放送
1977年~1988年
最高視聴率 41.9% 1981年9月17日
ザ・トップテン
日テレ系25局ネット(当時)
月曜夜8時
公開観客入り生放送(主に渋谷公会堂)
1981年~1986年
最高視聴率 28.8% 1982年5月17日
CHA-CHA-CHAの石井明美がもう出ないってなった週は
黒柳徹子がすごい剣幕で文句言いまくって
翌週あわててまた出た石井に徹子が説教してたなぁ
アルフィーのファン自宅前でやったやつ好きw
音もミヨンミヨンって酷くて桜井が最低って言ってたww
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